Se connecter『魂約の成立を確認した。新たなる男主人の帰還を歓迎する』
皇女宮から聞こえてきた声は、百年ぶりに待ち人が帰ってきたかのように弾んでいた。
俺には古代宮殿が発する言葉として理解できたが、リシアや法務官シルヴィアにとっては、宮殿全体が突然揺れ、壁や床の魔法文字が一斉に輝き始めたようにしか見えなかったらしい。
応接室の扉がひとりでに開き、廊下に飾られていた花瓶や絵画が次々と移動していく。古びていた銀色の燭台には青白い炎がともり、壁に積もっていた細かな埃まで風にさらわれるように消えた。
長く眠っていた皇女宮そのものが、俺とリシアの魂約をきっかけに目覚めたのだ。
「遥人、何が起きている。宮殿は何と言っているのだ」
「新しい男主人の帰還を歓迎すると言っている」
「男主人だと? おまえは三か月間の婚約者であって、この宮の主人ではない」
「俺に言われ
第31話 婚約を解消すると彼女は告げた『今度こそ、私が遥人を捨てなければならない』リシアの魂語は、驚くほど静かだった。泣き叫ぶ声よりも、その静けさのほうが怖かった。彼女は迷いを消したのではない。迷ってしまえば決断できなくなるから、自分の感情を切り捨てようとしている。俺が握った左手は冷たく、二本の銀線も弱々しく明滅していた。「一時間以内に皇都へ行き、俺との真銀の環を断ち切るつもりか」俺が尋ねると、リシアはわずかに眉を動かした。「人の考えを勝手に聞くなと、以前にも言ったはずだ」「聞きたくて聞いたわけじゃない。それに、口に出さず一人で決めようとするから、魂語を聞くしかないんだ」「ならば、いま口に出して伝える。遥人、私たちの婚約を解消する」広場に残っていたざわめきが消えた。処刑台の上にいるカナタも、怜央を支えていたロランも、俺たちを見つめている。リシアは俺の手を振りほどき、鐘の操作盤へ歩み寄った。魔王の印に侵食された身体は、まだ本来の力を取り戻していない。それでも背筋を伸ばし、竜帝国の皇女として、世界中へ届く声で宣言した。「竜帝国第三皇女リシア・ヴァルドレイクは、如月遥人との婚約を、この場をもって解消する。真銀の環を断ち、今後は互いの人生に干渉しない。これは私自身の意思であり、誰かに命じられたものではない」完璧に整えられた文章だった。皇族が正式な契約を解消するときの文言を使い、誰にも異議を挟ませない声で言い切っている。しかし、俺とリシアの薬指に残る銀線は消えなかった。二本の線は震えながらも、互いを選んだときの形を保っている。竜帝国皇都から届く、もう一人のアルベルトの声が低く笑った。『言葉だけでは不十分だ、リシア。真銀の環は、王家の契約書より正直だ。お前は婚約を解消すると口にしながら、心の中では人間を手放していない』「私が何を考えているかは関係ない。契約は言葉によって成立し、言葉によって解消される」『かつての偽装婚約ならば、
第30話 婚約者を殺せという命令を、俺は訳し直した聖剣が、リシアの心臓へ向かって振り下ろされた。止めようとしても右腕は動かない。勇者となった者は、魔王を討たなければならない。黄金色の命令が筋肉だけでなく、神経や骨にまで食い込み、俺の意思とは関係なく剣を加速させていく。リシアは逃げなかった。刃が迫っているのに、俺へ差し出した左手を引こうともしない。黄金の瞳には恐怖があったが、それ以上に、俺への信頼があった。『遥人なら止める。もし止められなくても、最後まで私を私として見てくれる』その魂語を聞いた瞬間、胸の奥から怒りが込み上げた。俺が失敗しても受け入れるなど、勝手に決めるな。父と話したばかりなのに、今度は婚約者へ何も言えないまま別れるつもりなどない。剣を止められないなら、命令の意味を変える。御厨統馬が俺へ与えた命令は、「リシア・ヴァルドレイクを殺せ」ではなかった。魔王リシア・ヴァルドレイクを討て。魔王という言葉は、彼女が生まれたときから持っていた名前ではない。御厨が世界中の恐怖を集め、あとから無理やり貼りつけた役割だ。討つべき対象は、リシア本人ではなくてもいい。「万象通訳。命令の目的語を再解釈する」俺はリシアから目をそらさず、黄金色の文章へ自分の意思を差し込んだ。「俺が討つのはリシア・ヴァルドレイクではない。この女に押しつけられた、魔王という役割だけだ!」聖剣がリシアの胸へ突き刺さった。広場から悲鳴が上がり、フィーネが俺たちの名前を叫ぶ。しかし、銀色の刃はリシアの身体を傷つけていなかった。剣先は胸元の黒い紋章へ沈み込み、その下にある服にも肌にも触れず、魔王という意味だけを貫いている。リシアは苦痛に顔を歪めたが、俺の手を離さなかった。「ずいぶん乱暴な助け方だな。あと少し解釈を間違えていたら、本当に私の心臓を貫いていたぞ」「俺だって好きでやったわけじゃない。文句なら御厨に言って
第29話 世界中が、俺の婚約者を殺しに来る世界中から向けられた殺意が、目に見えない濁流となって地下空洞へ流れ込んだ。人間の王国で祈りを捧げていた神官も、竜帝国の国境を守る兵士も、まだリシアの顔さえ知らない遠方の民も、御厨統馬の宣告を聞いた瞬間、魔王を倒すべき敵として認識させられた。その一つ一つは小さな感情にすぎない。しかし、何万、何十万という恐怖や憎悪が集まれば、それ自体が強大な魔力になる。リシアの胸に刻まれた黒い紋章が脈打ち、彼女の身体が大きく揺れた。「リシア!」俺が抱き留めると、腕の中の身体は氷のように冷たかった。銀白の髪が黒い魔力にあおられ、胸元から伸びた文字が首筋へ這い上がっている。文字が通った場所から鱗の色が濁り、黄金色だった瞳にも赤黒い光が混じり始めていた。「私から離れろ、遥人。この印は、私の近くにいる者まで敵と認識するつもりだ」「離れたら消えるのか」「消えないだろうな」「だったら離れる理由にならない」「お前は本当に、こういうときだけ話を聞かない男だな」リシアは俺を突き放そうとしたが、腕に力が入っていなかった。それでも魂語だけは、痛いほど鮮明に聞こえてくる。『怖い。身体の中へ知らない声が入ってくる。人間を殺せ、竜族を支配しろ、世界を焼けと囁いている。私はそんなことを望んでいないのに、このままでは自分が何を望んでいたのかまでわからなくなる』リシアの名前を覆う黒い文字は、彼女の意思まで魔王にふさわしいものへ書き換えようとしていた。俺は彼女の左手を取り、薬指に残る二本の銀線へ自分の指を重ねた。契約としての真銀の環は消えた。それでも、別々の人間が互いを選ぶと定めた二本の銀線は、俺とリシアの魂に残っている。「リシア・ヴァルドレイク。竜帝国第三皇女で、フィーネの姉代わりで、俺の婚約者だ。怒ると怖くて、意地を張ると長くて、甘い焼き菓子が好きなのを隠そうとして毎回失敗する女だ」「最後の情報は必要か?」「
第28話 「俺ごと殺せ」と勇者は笑った「断る」俺が即答すると、螺旋階段の底から乾いた笑い声が返ってきた。「お前なら、そう言うと思ったよ。誰かに死んでくれと頼まれて、素直にわかったと言えるような奴じゃないもんな。けど、これは同情してほしくて言ってるんじゃない。俺が死ねば御厨統馬も消える。それが一番確実で、一番被害の少ない方法なんだ」「お前が何をしたのかも、御厨がどんな仕掛けを残しているのかも、まだ全部聞いてない。それなのに、一番確実だなんて言葉を信用できるか」「だったら下りてきて、自分の目で確かめろ。俺を見たら、お前だって考えが変わる」怜央の声が途切れると、螺旋階段の左右に青白い火が灯った。石段は地の底へ向かって果てしなく続いているように見えた。壁には竜族の古代文字と、人間の神聖文字、それに日本語の断片まで刻まれている。異なる時代に作られた術式を無理やり縫い合わせたらしく、近づくだけで頭の中へ何人もの囁き声が流れ込んできた。世界を救え。敵を倒せ。民を導け。選ばれた者として振る舞え。命令の一つ一つは短いが、それらが何百、何千と積み重なり、逃げ道のない物語を作っている。「遥人、この先へ進めば、おそらく御厨の本体に近づくことになる」リシアが俺の手を握ったまま言った。「先ほどの男は投影にすぎなかった。それでも帰還陣を操り、お前の父親にまで手を伸ばした。本体がどれほどの力を持っているか、私にも測れない」「怖いなら、ここで待っていてくれてもいい」「私が言いたいのは逆だ。危険だからこそ一人で行かせないと言っている。それともお前は、父親との約束を果たす前に死ぬつもりなのか」「それは困る。でも、婚約者を危険な場所へ連れていくのも、父親に叱られそうなんだよな」「ならば次に会ったとき、私から説明しよう。遥人殿がどうしてもついてきてほしいと泣いて頼むので、仕方なく同行しました、と」「初対面の挨拶を終えたばかりなのに、もう嘘を吹き込むつもりか」「私とお前の契
第26話 婚約を解消すれば、世界は救える俺とリシアの真銀の環から伸びた黒い糸が、フィーネの胸へ突き刺さっていた。フィーネの身体は銀色の光へ変わり始め、足元から少しずつ輪郭を失っていく。肉体が消えているのではない。聖剣から生まれた彼女の存在が、王都地下に眠る始祖竜の心核へ引き戻されようとしている。「お兄ちゃん、痛いよ。身体の中から、フィーネじゃないものに戻されそう」俺へ伸ばされたフィーネの手を掴んだ。しかし、触れた指先まで冷たくなり、半透明に透けている。黒い糸を引き抜こうとすると、その力は俺の左手にある真銀の環へ流れ込み、逆にフィーネを強く引き寄せた。『無駄だよ、如月遥人』閉ざされた扉の奥から、御厨統馬の声が聞こえる。『その少女は、始祖竜の心核から切り離された記憶の器だ。本来あるべき場所へ返しているだけで、私は何も傷つけていない。心臓へ戻れば一つの大きな存在として完成するのだから、喜ぶべきではないか』「本人が嫌がっているのに、一つへ戻すことを完成とは呼ばない」『幼い子供には、自分にとって何が幸福なのか分からない。大人が正しい道へ導く必要がある』「そう言って、何人の名前を奪った?」御厨統馬は答えなかった。言葉を理解する力を持ちながら、相手の言葉を聞くことをやめた男にとって、フィーネの意思など最初から答える価値のないものなのだろう。「遥人、環を切ります」リシアが立ち上がった。先ほどの衝撃で呼吸は乱れ、胸元を押さえる指も震えている。それでも、フィーネを見つめる金色の瞳には迷いがなかった。「私たちの真銀の環が、始祖竜を目覚めさせる鍵になっているのでしょう。ならば、婚約契約を解除し、二人の繋がりを断ちます」「待ってくれ。今切ったら、君の魂まで傷つくかもしれない」「フィーネが消えるのを見ているよりはましです」「どちらかを犠牲にする前提で話すな」「では、ほかに方法があるのですか!」リシアが声を荒らげた。「私だって、